2011年6月30日木曜日

第2回ラグビーワールドカップ

1991年の10月、英国で開催された第2回ラグビーワールドカップに、日本代表の宿沢広朗監督の取材するために出かけていきました。日本からでなく、南フランスからロンドン入り。
というのは、その年の8月、息子と娘が母親の強い希望で、南フランスにあるエコール・フレネという学校に入学(留学?)することになり、僕も仕事を休んで南フランスに滞在していたからです。

息子は10歳、娘は5歳。ふたりともフランス語はまったくできません。
僕も大学の第二外国語でフランス語を選択していたとはいえ、フランス語はまったくしゃべれません。
母親だけがフランス留学経験者で、ただ一人フランス語が話せます。

なんとも無謀とも思える南フランス行きでしたが、フランス語をまったく話せない子供を受け入れるフレネという学校に興味を覚えたのは確かです。
南フランスでのことは、子供たちが書いたほうがいいので、ここではカット。ワールドカップ同行記に話を戻します。

この第2回ラグビーワールドカップは、10月3日から11月2日まで、イングランドを中心に、 フランス、ウェールズ、スコットランド、アイルランドなどで行なわれました。

日本は予選プールB。スコットランド、アイルランド、ジンバブエとの対戦が決まっています。
初戦のスコットランド戦は10月5日、スコットランドの首都エディンバラで行なわれました。
前日にエディンバラ入りしたものの、宿沢監督の時間がとれず、仕事はなしで観光の一日だったような記憶があります。

試合は9対47の大敗。2年前に勝っていた相手だけに期待したものの、まったく歯が立たない一戦でした。ホームとアウェイの差とは思えません。実力の違いを見せつけられた思い。
宿泊していたホテルのバーは、スコットランドの勝利を祝う人たちであふれかえっていたのが印象的でした。日本に勝ったのが、そんなに嬉しかったのでしょうか……。彼らも少しは心配していたのかな……

2戦目のアイルランド戦は10月9日、アイルランドの首都ダブリンでの薄暮ゲーム。
地元の熱い声援を受け、アイルランドが8分にPG12分にトライと序盤から猛攻撃。
35分にLO林がトライを返したものの、前半さらに2つのトライを献上。

後半に入ってすぐにPGを決められ、勝負は決したかと思った19分、自陣でペナルティを得てSH堀越が素早い球出し、左WTB吉田がディフェンスを抜き去りタッチライン際をものすごいスピードで走っていくと、観客は総立ちとなりました。
内に切り返して一人かわし、タックルされたが、フォローしてきたSO松尾からFL梶原とつなぎトライ。場内が騒然となったのを覚えています。

それからは、吉田にボールが回ると、スタンドから大歓声が――
しかし、もうひとつトライを奪ったものの、最終的には1632。これで日本の予選ラウンド敗退が決定しました。トライ数は日本が3、アイルランドが4。でもダブルスコア。

試合が終わったあとのグラウンドに観客がなだれこんだので、僕らもグラウンドに降りてみて驚いたのは、芝生の状態の素晴らしさです。
日本とまるで違い、フカフカの絨毯のようでした。気がつくと、芝生に寝転んでいました。
日本にはスポーツのルールはくるけど、そのバックグラウンドまではこない、と浅井愼平さんが言っていたのを実感した夜でした。

最後のジンバブエ戦は1014日、北アイルランドの首府ベルファストで行なわれました。
驚いたことに、ベルファストの街には戦車が走っていたのです。宗教差別に端を発した北アイルランド問題が、まだ解決していなかったのです。
街に出ると、マクドナルドが初めてできたとかで、テレビの取材をしている横を戦車が……

試合は、前半こそ16対4と競っていましたが、終わってみれば52対8の圧勝。
狭い観客席の、みすぼらしい競技場での初勝利。
この記念すべきワールドカップ初勝利の場に立ち会えたことは、感慨深いものがありました。

その後も、ジャパンラグビーはHAPPY DAYSの実現ができないでいますが、一ファンとしては最近のラグビーに面白さを感じません。
宿沢広朗氏も今は亡く、あの当時を語る友もなく、ラグビー観戦から遠ざかっている自分がいます。

「展開、接近、連続」の知と情熱のラグビーをもう一度、見たいと思っているのは私だけではないでしょう……


ノアズブックス 編集長 Hideo. K

0 件のコメント:

コメントを投稿